桜に緑の色が混ざり始めた天気の良い午後、図書館にでもと玄関を開け、春の日差しを反射して眩しいほどの目の前の門扉を開くと、視界の端に何やら毛のついた物体がすっと入って来た。    

嫌な感じがして、恐る恐る視点を下に移すとその嫌な予感のとおり、それはネズミの死骸であった。

 せっかくのうららかな気持ちを台無しにされたからといって、なかったことにしてそのまま出かける訳にはいかない。   

ウチの女系家族に見つかれば阿鼻叫喚、卒倒緊急搬送ともなりかねない。                       

僕は男としての責任を果たすべく、勇敢にもそっと足の先っちょで、なるべく死骸を見ぬように細心の注意を配りながらチョンチョンと少しづつ動かし、時々空振りして倒れそうになりながらようやく家から目の届かぬ曲がり角まで移動させた。

 男としての大役を果たし、安堵する間もなく、当然一体何故あんなものが玄関先にあるのだろうという疑問が湧く。

そしてすぐにあることに思いが至ったのである。

 実はうちの近くで何年も前に野良猫が子供を産み、その親子がしばらくウチの自動車の屋根を専用の日光浴場として利用していたことがあった。

 猫好きが見れば、まぁ可愛らしいと何十分でも眺めるのであろうが、ぼくは二階からそれを見つけると、車の屋根が傷つくことを恐れ、窓を開け身を乗り出し、コラあっちいけ!しっしっ、と声を荒げた。

 最初の頃こそ、親猫はビックリして子供を連れ飛んで逃げて行ったが、34回もすると、二階からただ叫ぶばかりのニンゲンを、この男は取るに足らぬとばかり、親子で僕にガンを飛ばすようになった。

僕がいくら腕を振り回そうが、怖い顔を作ってフーッと猫のように威嚇しようが、親子全員ジッとこちらを睨んだまま立ち退こうとしないのである。

別に下に降りて行って追い払っても良いのだが、大の大人が年端もいかぬ子猫たちと、がんばって子育てをしている母猫にそう目くじらをたてることもないかな、と大の大人の僕はとうとう見逃してやることにしたのだ。

そして、その子猫たちの中に、全身は真っ黒なのに4本の足首から下が全部白くて、まるで白い靴下を履いているような猫がいた。僕の子供達はいつからかその子猫を白靴下と呼ぶようになった。

 

 他の子猫は大きくなるにつれどこかへ行ってしまったが、白靴下だけはそれからも時々うちの車の下とか、自転車のサドルに乗っかって日向ぼっこなんかしていたのである。

 

 子供の頃は他の子猫より警戒心が強く、人を見ると真っ先に物陰に隠れていた白靴下だが、それでも大人になるにつれだんだんと図太くなり、最近は2メートルくらいまでは近づいても逃げなくなっていた。

でも、相変わらず瞳の小さいやや鋭い目つきでこちらをジッと見るのは変わらない。

時折仏心を出して、よしよしなどと近づいても、2メートルの時点で敵はすっと立ち上がってスタスタ面倒くさそうに逃げ、1メートル近づくと向こうも同じ距離だけ移動するのである。

せっかく可愛がってやろうとこちらがしゃがんで舌など鳴らしてみても、つまらなそうに目の前であくびなどをしてるのである。

まことに失礼な奴だ。

誠意が通じない。人の気持ちがわからない。せっかく気分が良いので頭のひとつでも撫でてやろうとしているのに、なんという無礼であろうか。

犬畜生ならぬ猫畜生だ。

そんなとき、僕はフンと、猫なで声なんぞを出した自分を恥じて不機嫌に玄関を閉める。

 

しかし、そんな白靴下が珍しく甘えた声を出した事がある。

 

1回目は娘と家の前の通りを歩いていた時、もう大人になった白靴下が3軒隣の家の敷地に飼い猫のようにたたずんでいたのを見て「あれウチの車の上にいた白靴下じゃないの」とぼくが娘に言った時だ。

「そうだよ、僕だよ、覚えてないの?」

というように白靴下は僕たちをしっかりと見上げてニャアとないた。

娘は、あっ、自分だよって言ってる、と笑いながら白靴下を振り返った。白靴下は、ちゃんと僕のこと覚えてるよね、と念を押すようにじっと僕たちを見送った。

僕はこの時ほんの一瞬だけど、白靴下がなんだか懐かしい親戚の子のように思えた。

そして、もう一回は昨日のことだ。

家の前の路地を曲がった時、足元でニャアと猫が鳴いたので下を見ると、まるで僕を待っていたかのように白靴下がちょこんと座っている。

1メートルも無いのに逃げようとしない。

ジッと僕を見ている。

なんだ今日は逃げないな、珍しいこともあるものだと、

「なんだよおまえ、どうしたんだ」

と声をかけたものの、先を急いでいたので、もの言いたげな白靴下を残してそのまま立ち去った。

 

思い返して見ると、この時白靴下は、今度お土産を持って行くよ、と僕に伝えようとしたのだ。そう、鼠は白靴下が持ってきたのだとこの時初めて思い至った。

 

よく自分のとった獲物を得意げに飼い主に見せにくる猫の話を聞くが、いつも邪魔者扱いした僕を白靴下は飼い主だと思っていたのだろうか、と少し不思議に思いながらも、他に思い当たる節もないので結局鼠は白靴下のしわざということにした。

 

家に帰り、娘たちにその話をすると、思わぬ話を聞かされた。

 

まだ白靴下たちがほんの子猫だった頃、自分は食べずに子猫たちに食事を与え、そばでジッと見ている母猫に胸を打たれた家人が、一度だけ母猫も一緒に食べられる量のチーズと鰹節を与えたことがあるというのだ。

飢えた子猫たちは無我夢中で食べ始めたが、母猫はしばらく遠くから様子を見た後、最後は美味しそうに食べたという。

普段は猫が苦手な家人がそんなことをするなんて考えもしなかったので、少し驚いたが、多兄弟で早い時期に父親を亡くした家人は母猫と子猫たちを自分に重ね合わせたのであろうか。

そして、僕はその話を聞いて、ようやく玄関先の鼠の意味を理解した。

自分で獲物を取れるようになった白靴下が恩返しのつもりでお土産を持ってきたのだ。

 

猫の恩返しか、と僕は二階の窓を開けてかつて親子が日向ぼっこをしていた車の屋根を眺めた。

そこにはまだ小さい頃の白靴下が、びっくりした顔で僕を見上げているような気がした。

 

もう少し優しくしてあげれば良かったな、と僕は窓をゆっくり閉める。

 

あれからしばらく経って、白靴下はまた僕を近づけなくなった。

 

でも僕はそんな白靴下を優しい気持ちで眺めることができるようになった。

 

近づくと逃げて行く白靴下の背中を見つめながら、

「おい、白靴下、気持ちは嬉しいけど、お土産はもう勘弁してくれよな」

 

と声をかけると、白靴下は聞こえたのか聞こえないのか、無言のまま、桜の花びらで化粧をした垣根の中にすっと消えて行った。