今頃吹く、若葉の香りを含む気持ちの良い風を、風が薫る、と書いて薫風というそうだ。
長くキャンプ生活をしていると、自分の周りの空気が動いてないと気持ちが悪い、とカヌーイストの野田知佑さんがエッセーで書いているように、僕も風がないと何だか気持ちが落ち着かない。
気候が良くて、気持ちの良い風がびゅんびゅんと吹いてくれるこの季節は、もったいなくて、真っ直ぐ家に帰れない。ずっと外にいたくなる。
しかし住宅街にある我が家の周りを、わけもなく夜一人でぶらぶらしてると、僕のような怪しい者はすぐ職質とか受けるので、せっかくの薫風もなかなか落ち着いて楽しめないのだ。
昼間楽しめばよいではないか、というかもしれないが、ビール好きの僕はどうしても、黄金の水を片手に、夜、若葉の少し湿ったにおいが加わった薫風をつまみに飲みたいのである。
どうするか。
そんな時は、猫の額ほどの我が家のベランダのサッシを開けて、そこに座るのだ。
洗濯機や洗濯物の、そのわずかな隙間から夜空を覗き込みながら、風とビールを楽しむ。
音楽もそうだけど、風の香りもまた魂を過去に運んでくれる。
タイムマシーンのように、まっすぐ昔の自分に戻っていける。
しかし、音楽はその当時聞いていた曲を聴けば、正確にその時代にもどれるけど、風はいつどんな香りを嗅いだかなんて自覚していないから少し大変だ。
ぼんやりと思い出せそうなんだけれど、なかなかこれだ、というのが出てこない。
ビールを口に運びながら何回も挑戦してるうち次第に酔ってきてしまい、結局最後はあやふやになってしまうことが多い。
57年生きていれば、57回分の薫風を経験しているわけで、どれかの一回を思い出すのが難しいのは当然だけど、それでも時には、あの時の風だ、と明確に記憶がよみがえることがある。
そんな時、僕は心も体もまるごと,当時吹いた薫風の中にすっぽりと包まれしまうのだ。
この季節、網戸の前で酒を飲み、風を肴に、僕は遠い昔の匂いをさがして遊ぶ。
2016/5