飲み屋をでると、雨は傘を出そうか迷うくらいの小降りで、降るというより霧が舞うといった感じだったからそのまま歩き出したけど、結局2,3分歩いて顔に吸い付くような細かい水滴に我慢がならず、僕は折り畳み傘をバックから取り出した。

しばらくその小さい傘の中に体を縮めて、家まで10分位の細い路地を歩いていたら、突然、自分のしていること、家に向かって歩いていることが、何だか意味のない事のように思えてきた。

もちろん家に向かって歩く事には意味があるけど、何だか暗い夜道を水たまりをよけながら、ひたすら歩いていることに退屈してしまったようなのだ。

雨に黒光りする、狭い路地のコンクリートを踏みしめながら、酎ハイ3杯分の酔いのまわった頭で考えた。

子供の時は1人で夜の匂いを嗅ぎながら歩くだけでワクワクしたなって。雨が降るとお気に入りの傘をもってわざわざ外に出て行ったなって。

今はただできるだけ雨に濡れずに家に着くことだけ。それ以外全く関心がないなって。

子供の時は目的より、その時起こったこと、見たこと、触れたこと、感じたことが新鮮で楽しかったなって。

雨がふれば、その世界に全身で浸ったなって。

葉っぱをめくってカタツムリを見つけては、つのにふれてみたり、アマガエルを見つけては捕まえようと追いかけたりしたなって。

大人になった今は、ただ機械のように足を交互に出しているだけ。

歩を緩め、薄暗い街灯の下で、思いっきり湿った空気を鼻から吸い込んだら、それまで気付かなかった雨の匂いが鼻孔に飛び込んで来た。

そして、もう50年も昔に住んでいた三鷹の公務員住宅の夜の街灯を突然思い出した。

まだ幼かった僕は、両親が共稼ぎで夜いないとき、こっそり家を抜け出して、ふだんは味わえない魅惑的な空気を堪能したのである。

そんなことを思い出しているうちに、普段ならうっとおしい雨の帰路を僕はいつのまにか懐かしく楽しんでいた。

時間は新鮮な事が少なくなっていくと、早く過ぎ去っていってしまうと、なにかの本で読んだ。

雨の匂いや、夜の香り、鳥や虫の声、自然が作り出すものは、楽しもうとすればいつでもそこにある。いろんなことに疲れた大人が、それらを楽しむことを怠けてしまうのだろう。

惰性は大人の罪である。

老いとは惰性のことなのかもしれないな。

なんて、偉そうなことを言ってみたけど、家に帰ったら、僕はまた惰性でダラダラと飲み続けてしまうのだ、きっと。

罪深い大人なのだ。

そうだ、飲むならせめてこの雨の匂いをつまみにしよう。

結局、ダメダメ飲んべの独り言。